シルクロードの旅―8
9月24日(月)ヴァルジア〜クタイシ(ジョージア)
AM5:00、起床。石畳の上で寝たのは初めてであったが、マットと、自分の寝袋を敷いていたので、硬さは何とかしのげた。そして、此処は標高1000mだから、冬服の装備で寒さもクリアー。喉の痛み、鼻水と来た風邪が、今は咳に来ている。早く治したいが、南米旅行の際は、抗生物質を服用するまで、治らなかった。体力が減少しているからだと思う。
AM7:30、朝食。シリアル、バナナ、コーヒー。 出発前(ジョージア・ヴァルジア)
AM8:30、出発。 AM9:00、アルツィヘのヘルトビシ・フォートレス(Khertvisi Fortress10世紀の要塞で世界遺産)を見学。此処もガイドブックにはない遺跡だが、観光バスは次々に訪れている。我々が坂道を登って行った時には、まだフォートレスの門は閉まっていて、中に入れなかった。
しかし、帰り道で門の管理者と出会い、門を開けて貰うことになった。管理者は「開門時間は、午前10時だ」と言っていた。若者は再度、坂道を登って行ったが、私はそのまま下ってきて、下の茶店で休憩し、茶店裏に在るパラバニ川の吊り橋を見学した。お茶、単4電池、ちり紙を購入。7ラリ。 ヘルトビシ・フォートレス(ジョージア・ヴァルジア)
パラバニ川の吊り橋(ジョージア・ヴァルジア)
AM10:00、出発。車窓は緑の牧草、木々が生えており、馴染みのある風景で、特筆すべき物はない。ただ、10年ほど前に訪れたトルコでの風景(なだらかに起伏した広大な大地)を思い出すような所が時々見られた。
AM12:00、ランチタイム。一軒の売店で、自家製のパンを販売していた。特に食指を動かされる物はなく、皆が、どんな物を食べるか様子を見ていた。マークに「そのパンには何が入っているの?」と聞くと「チーズです」と言う。
「ショッパイのでしょ?」と言うと「少々」と言う返事。 彼らの「少々」は、あてにならないから、私の選択肢からは除外。その上で、もう一度陳列ケースを覗くと、中にマッシュポテトを入れた揚げパンがあった。これならそんなにショッパイ事も無かろうと思い購入。1ラリ。
これが当たり!久しぶりに美味しいパンに出くわした。私は、夕食にもこれを食べたいと思い、テイクアウトを注文。店の女将は、嬉しそうに1個のポテトパンを包んでくれた。1ラリ。
たった1ラリでも美味しく感じる食事もあれば、10ラリ支払っても、不満なことも多い。外国での食事は、その判断が難しい。
PM1:00、出発。トラックバスの調子が悪そうだ。少しの登り坂でも苦しそうにあえいでおり、スピードが極端に落ちる。そして、後ろには車が渋滞している。
PM3:00、トイレ休憩。ニンカから「トラックバスの調子が悪いから、皆をホテルに降ろした後、修理に入ります」と言う話があった。昨日ポーランド人の助けを借りて、修理が出来たと思ったところが、治ってなかったらしい。ジョノは毎日、トラックバスの点検をしているが、それでは追いつかないほど、ガタが来ていると言うことか!
PM4:00、クタイシのホテルに到着。狭いながらも二人部屋で、三度目の合流をしたテリーと相部屋である。
PM5:00、両替にタクシーで町へ出る。50ドル=130ラリ。 その後、抗生物質、6ラリ。歯磨きジェル、14ラリを購入。タクシー、往復、9ラリ。
PM7:00、日記を家族に送信。今回はスムーズに送信できた。今までの問題(受信は出来るが送信は出来ない)は何だったのだろうか。
今回の日記には、私の体調の悪い日々が綴られているので、日記を読んだ家族からは心配の反応が多かった。「トルコでのキャンプは止めて帰国したらどうか」と言う声もあった。私の頭には、それも選択肢の一つにあるが、様子を見ながら、もう少し続行しようと思う。
PM8:00、夕食。ランチ時のテイクアウトと、バナナ。ポテトの揚げパンは、この時間になっても美味しかった。
PM8:30、シャワータイム。テリーが外出から戻ってきた。話好きで、取り留めのないテリーの話を暫く聞いてから、就寝。
9月25日(火)クタイシ
AM6:00、起床。メールチェック。ポメラタイム。 AM9:00、ホテルの朝食。10ラリ。テリーの話では、今日の自由行動は、6人で洞窟の見学に行くと言うことであった。ところが、時間が来ても、具体的な物は何も見えてこない。
私も、明確な目標が有ったわけではないので、実害はないが、ただ何となく時間だけが過ぎていくのは、空しいものである。予定していた人が、1人、2人と抜けて行った。
AM12:00、この時間になっても、予定していたマークとジョアンナに急用が出来て、今日は動けそうもないという。結局私は、一人で町へ出かけることにし、とりあえず、クタイシ市の植物園を目指した。徒歩40分ほどの所にあり、そこの老木が有名らしい。
通常は植物園の入り口で、入場料を払うのだが、「今日は何かの記念日だから無料です」と言う。1ラリが無料になったことよりも、そう言って、笑顔で迎えてくれた受付嬢の笑顔の方が嬉しかった。
樹齢400年と言われるオークの木は、まだ青い葉を付けているが、木の中が空洞になっており、その空洞には教会のように、聖母等の宗教画が飾られていた。
この植物園は、若いカップルのデートスポットらしく、この老木から20m半径の所に、3組のカップルがベンチに座っていた。しかし、彼らはこの老木が、そこにあることすら知らなかった。 空洞のオークの木(クタイシ) 空洞に飾られた聖母像(クタイシ)
帰路に、パン、牛乳、ピクルズ、水を購入。14ラリ。タクシー代、6ラリ。
PM3:30、ホテルに帰着。ベッドでユックリする。
PM7:30、夕食。パン、リンゴ、ソーセージ、ピクルズ。今日買ってきたピクルズが、美味しくなかった。こんな事は初めてである。材料のキュウリが、酢に漬ける前から柔らかくなっていたような食感であった。非常に残念!
PM8:00、ポメラタイム。 PM9:00、シャワータイム。 PM10:00、就寝。
9月26日(水)クタイシ(ジョージア)
AM7:00、起床。 AM8:30、朝食。昨日も同じであったが、このホテルの朝食は、一見、美味しそうに見えるが、良く見ると市販物を並べているだけである。専属のコックが居るわけではなく、掃除のおばさんが、狭いキッチンでお湯を沸かし、トマトやキュウリを切って、朝食の支度をしているだけだ。これで10ラリは、高すぎると思うよ!
AM10:00、昨日お流れになった郊外の観光へ。マーク夫妻、テリー、それに私。タクシーを1日借り切って割り勘にする。一人20ラリ。約1000円。日本の基準から考えると、交通費が安くて助かる。
本日の観光は次の4カ所:
AM10:30、1、ゲラティ・モナストリ(Gelati):1106年にグルジア王国の王、ダヴィド4世によって創設された。 ゲラティ・モナストリ(クタイシ) AM11:00、2、モツメタ・モナストリ(Motsameta):古くて小さなモナストリだが、中では礼拝が行われていた。 モツメタ・モナストリ(クタイシ)
AM11:30、3、サタプリア(Sataplia)鍾乳洞国立公園:恐竜の足跡が見られると評判の所だ。「これがそうですよ」と言って説明されたが、「フーン、そんなもんかね!」と言う印象しか無かった。専門家が見れば、根拠があるのだろうが、素人には、全く分からない。熊の足跡ですと言われれば、そうですかと言うでしょう。
恐竜の足跡!?(サタプリア鍾乳洞国立公園)
サタプリア鍾乳洞国立公園(クタイシ)
PM2:00、昼食。パン、コーヒー、4ラリ。 PM3:00、4、プロメテウス・ケイブ(Prometheus
Cave)鍾乳洞:ヨーロッパで最大級の洞窟で、洞窟内にはボートに乗れる場所もあると評判の所だ。ところが、実際に行ってみると、今日は、洞窟内の水量が多くて、ボートの運航は停止していると言う。そうなると、今まであちこちの国で見てきた洞窟と比べて、特筆すべき物はなかった。20ラリ。 プロメテウス・ケイブ鍾乳洞(クタイシ)
プロメテウス・ケイブ(クタイシ)
と言うことで、「もしかしたら何か特別な物に出会えるかな」との今日の期待は、肩すかしに終わった。帰路に露天でリンゴを2個、3ラリ。
PM5:00、ホテルに帰着。タクシー代、20ラリ。 続いて、ミーティング。「トラックバスの修理が終了していないので、明日の国境越えは、ミニバスを借りて行う」との事であった。ヤレヤレ!
PM6:00、ポメラタイム。 PM8:00、夕食。カスタードパン、リンゴ。いずれも、グッドでした。特にリンゴは、5段階評価の5でした。
PM9:00、パッキング。シャワー。 PM10:00、就寝。
9月27日(木)クタイシ〜トラブゾン(トルコ)
AM6:00、起床。小雨。 AM7:00、マイクロバスにて出発。今日から、ジョンとスーザンのカップルとは、お別れだ。これは、彼らの予定の行動だ。途中から参加して、途中で離れていく。結婚はしていないが、2年前から同棲していると言っていた。ジョンはスーザンにゾッコンだ。
私がスーザンと話していると、苦虫を潰したような顔をして横から睨んでいる。元々がフランス人のジョンの英語は、きついフランス語訛りがあって、私には聞き取りにくいが、皆には通じている。
スーザンを呼ぶときは「スザン」と呼び、いかつい顔をしていても声の響きは軽い。毎日、何度「スザン、スザン」と聞かされてきたことだろう。そう呼ばれるスーザンも、嬉しくないはずはなく、素直に応じている。
時にスーザンが、甲斐甲斐しくジョンの世話をしている時の、ジョンの嬉しそうな顔は、「鬼も笑うことがあるのか」と思うようなデレデレの笑顔である。
大勢の中にあっても、二人は何時も二人だけの世界を作っていた。出かける時も、食事の時も。だから2ヶ月ほど旅行を一緒にしたとは言え、互いに自分をさらけ出して、話し合うことはなかった。ジョンには大きな壁を感じたまま分かれることになる。
マイクロバスの中で朝食。カスタードパン、リンゴ、コーラ。食後に抗生物質を服用。咳の回数が減ってきたように感じるが、まだ痰は切れず、スッキリはしていない。
AM9:00、マイクロバスは、黒海の海岸沿いを走っている。南仏のリゾート海岸を思わせるような、明るく、美しい浜辺が広がっている。バトゥミという町らしい。 黒海沿岸A(バトゥミ)
黒海沿岸B(バトゥミ)
AM9:30、ジョージア側のイミグレーションに到着。ジョージアの残金をトルコの貨幣に両替。180ラリ=285トルコ・リラ。1リラ=20円位か?
AM10:30、トルコ側のイミグレーションを通過。X
線チェックを担当している女性が、画面から目を離して、隣の男性と話し込んでいた。こんなにいい加減なチェックで大丈夫?たった1時間で国境の審査が終了した。
此処のボーダーは、まさに黒海の海岸沿いにあり、右側は黒海が広がり、左側は崖になっている。規模は全く異なるが、箱根の関所を思い出した。
AM10:45、(トルコ時間に修正すると、AM9:45)トラックバスの運転手・ジョノが皆を待っていた。「車の調子はどうですか?」と聞くと、手のひらを左右に傾けて、「まあまあです」と言う返事だ。大型のトラックバスに、たった10人を乗せて出発。
AM10:00、町に入り、買い物休憩。電池、15リラ。ハンバーガー、10リラ。
PM2:00、ジョージアのポティ港からトルコのトラブゾンまで、黒海の沿岸を走ってきた。休憩時間を含めると6時間になる。こんなに長時間、黒海沿岸を走ることは2度と無いだろうと思いながら黒海に目をやって来た。 黒海沿岸(トラブソン) 「なぜ黒海(ブラック・シー)と命名されたのであろうか?」そう思いながら、水平線に目をやると、そこは真っ黒であった。「空が雨模様で暗いから」と言うのがその原因であろうが、妙にそれだけではないような気もした。ある記事には、亜硫酸化合物の沈殿のため、海底が黒く見えるのでこの名があると言う。
トラックバスは、トラブゾンで黒海の海岸から内陸の方へ梶を切った。いつの間にか9月も下旬になっており、夏はとっくに過ぎたかのように涼しい。
PM2:30、トラックバスが、何時もとは変わったところに駐車した。車窓から、そこにある建物の看板を見ると「SCANIA」と書かれている。なんと、トラックバスのメーカーの名前である。つまり、ジョノは、その営業所兼修理工場に立ち寄ったわけだ。 SCANIAの営業所(トラブソン)
そこで車の点検をしている間に、我々にはロビーで「トルコのお茶」が出された。それは、特徴のあるガラスのコップに、茶殻の入った濃いめの紅茶である。10年前の旅行で「上手に茶殻を残しながら飲むのがコツだ」と聞いたような気がする。
PM3:30、トラック・バスの点検が終わり出発。ジョノの話では、「ボルトを1本交換しただけだから、大して金は掛からないよ」と言っていたが、これですっかり良くなったのだろうか。
私の気分は、トルコに入って幾分軽くなったように感じている。それは何処から来るのかと自問してみると、トルコへは、10年ほど前に一度訪れている。それで、「知人の家に来たような気分に成っているのかな」と思い当たったのである。
PM4:00、林道を通って、山へ入っていく。 PM5:30、スメラ修道院の見学にやって来た。トラックバスから下りると、小雨が降っていて、身体が冷えてきた。しかも、モナストリは此処から1kmも歩かねばならないと言う。
私とマークは見学に行かないことに決め、露天の焼きトウモロコシを買って食べた。美味しいことを期待していたが、大分前に焼いたものらしく、水分が飛んでいて硬く、美味しいとは言えなかった。皆が戻ってくるまで、バスの中でポメラを叩く。
PM6:00、割と早い時間に皆が戻ってきた。「モナストリは如何でしたか?」とスコットに聞くと「道が途中で閉鎖されており、そこからは、霧が濃くて何も見えませんでした」と言う。寒かったのに、お気の毒さまでした。 PM6:30、近くのキャンプ場(標高約2000m)に到着。敷地の持ち主とニンカとの交渉がまとまったようだ。コンロを設置したりして、夕食の準備が始まったが、私はまず冬用の下着に着替え、防寒具を纏いたい。 アダムに頼んで、トラックバスからスーツケースを降ろしてもらい、目的を遂げた。短パン姿の若者も居るが、今の私には、格好を気にしている余裕はない。そして、自分のテントを張った。 PM7:30、焚き火にあたりながら待っていると「夕食の準備ができたよ」の声がした。各自がプレートを持って鍋の前に並ぶと、料理の担当者がよそってくれる。今日のメニューは、いろいろな野菜をトマトソースで煮込んだものを、ご飯に掛けて食べる。いわゆる、ベジタリアン向けの料理であった。 野菜が嫌いなアダムは、夕食のメニューが分かっていたらしく、夕食を作っている最中に、自分だけ、カップラーメンを食べていた。それを妻のニキータが心配そうに見ている。 PM8:30、テントに入ってポメラタイム。 PM10:00、就寝。 9月28日(金)トラブソン AM5:00、起床。ポメラタイム。 AM6:30、朝食。シリアル、トースト。 AM7:00、出発。今日は、キャンプ場からキャンプ場への移動である。これと言って見物するところもなさそうだ。 AM9:00、トンネルの多い山岳地帯を走っている。標高は2000m前後だから、パミール・ハイウェイの事を考えれば、特別のことではない。この辺の山岳地帯はポントス(Pontic)山脈と言う。さすがに山は黄葉してきており、秋を感じさせる。 ポントス山脈A(トルコ北東部) ポントス山脈B(トルコ北東部) そして、中央アジアを走っているときから、気になっていたのだが、100箱単位の蜂の巣箱があちこちに見られ、養蜂業が盛んなことを教えてくれる。きっと、美味しい蜂蜜が採集されていることだと思う。時々、路地でも販売してはいるが、何故か手は出ない。 AM10:00、トイレ休憩。ジョノに、車の調子を聞いたら、「グッドです」と言っていた。昨日のメーカーへの立ち寄りが良かったのかな。ジョノがメーカー側に、「こんな風に調子が悪いのだが」と言うと、すぐに理解して部品を交換してくれたと言う。好調が続くことを祈ろう。 AM12:00、ランチタイム。豆スープ、パン、炒めライス。13ラリ。特に美味しいわけではないが、豆スープがしょっぱくなくて助かった。 PM2:00、トイレ休憩。この辺りは、麦畑と牧草地が広がっている。空にはトルコの空軍機と思われる戦闘機が、次々と飛び去っていくのが見える。訓練なのか、実践なのかは分からない。 PM4:00、通りがかりの町で、買い物休憩。夕食の材料を購入することが主な目的。「こんなに開けた町なら、ホステルだってあるだろうに、どうしてキャンプなの?」と思っているのは、私だけかしら? PM6:00、カッパドキアに行く途中のキャンプ場に到着。とは言っても、此処はガソリンスタンドの駐車場である。通りには車が頻繁に走っている。テント張りは、慣れたと言えば慣れてきた。しかし、シャワーがないことに慣れたとは言えず、それが一番辛い。 PM7:30、夕食。マッシュポテトにソースを掛けたもので、イギリス風の料理だという。これまでにもあちこちで食べてはいる。それに、ソーセージやピクルズの付け合わせ。今日の担当は、マーク夫妻で、まずまずのお味でした。 PM8:00、ポメラタイム。 PM9:00、就寝。抗生物質を飲み始めてから、咳の数と痰の量が減少してきたようには感じている。 9月29日(土)カッパドキア AM6:00、起床が少し遅かった為、朝食が取れなかった。それより、とうとう、テントが壊れてしまった。6本ある骨のうちの1本が折れてしまったのだ。何時も折り畳む時にすんなり折り畳めない骨が2本あった。 「こんなに力を入れないと、折り畳めないのかな?骨が折れてしまいそうだけど」と思いながら、テントの撤収をやっていたのだ。その心配がとうとう現実のものとなってしまった。最後の10日間、骨が1本折れたテントで過ごせるか、これも、新たなチャレンジである。 AM7:00、出発。車窓からはモスクが頻繁に見かけられる。高い尖塔があるのですぐに分かる。町に1つと言うより、町内に1つ位の割であるのかしら? トルコは、イスラム教でも、さほど厳しくはないと言われているが、実体はどうなのだろう。政治の世界では、世俗主義とイスラム主義が勢力を争っていて、今のところ、世俗主義が政権を握っていると思うが、安定政権とは言えないようだ。 AM9:00、トラックバスは、順調にカイセリの町を通過して、カッパドキアを目指している。バスの調子は良いようだ。揺れも今までと比べたら比較にならないほど少ない。トルコの道が余程整備されているのだろうか。 トルコは2度目の訪問だが、入国した所が全く反対方向だし、今回はオール・キャンプだし、今回の訪問地は少な目に絞ってあるようだしで、気分は大分違ってくると思う。 AM11:00、カッパドキアに到着。キャンプサイトがあり、早速テントを張る。別棟があって、そこには、シャワー、トイレ、キッチン、充電用コンセント、Wi-Fi、等の設備がある。今までのブッシュ・キャンプとはひと味異なるキャンプになりそうだ。 今日の夕食は私たちの担当だ。メニューはスパゲッティ・ボロネーズだと言っていた。早速、Wi-Fiを試してみたが、シグナルは受付の近くが強い。ラインは問題なく送受信できるが、メールの送信はできなかった。 アンドレアの妹が今日から合流。こんなパターンが有るとは知らなかった。カナダのバンクーバーから飛んできた。姉とは3歳違いの、地方公務員である。両親は離婚していて、母がバンクーバー、父がカルガリーに住んでいる。カナダでは、両親の離婚は、普通のことなので、何も気にしていないと言う。 AM12:00、今日のキャンプサイトは広いので、テントを張る場所を決めるのに困る。私は若い連中が、設営し始めた、その隣にテントを張ろうと思って行ったら「我々は夜遅くまで騒ぐので、貴方は別の場所にした方が良いと思いますよ」と言う。 キャンプサイトからの風景(カッパドキア) 何時も、さっさと寝てしまう年寄りに対して「暖かくも冷たいアドバイスを有り難う」と思いながら、そこから離れた別の場所を探した。そこは、北と西が壁になっている空き地で、風よけには都合が良かろうと思われる場所であった。それが後刻、幸運をもたらす事になるとは! テントを壁の近くに(カッパドキア) PM2:00、シャワータイム。温かいお湯が十分出て、気持ちの良いシャワーであった。久しぶりに、めっきり少なくなった髪に串を入れ、伸び放題の髭を剃り、鼻毛を切った。気分が軽くなるものである。 シャワールーム(カッパドキア) PM2:30、昼食。インスタントラーメン。このキャンプサイトから昼食に出かけるには、20〜30分歩かねばならない。そこで取り出したのが、非常食用のラーメンである。これが、日本から15個持参した、最後のインスタントラーメンとなった。スッキリしたような、少し寂しいような気持ちである。 PM3:30、洗濯。洗濯機に入れて洗うだけ。15リラ。乾かすのは、自分で木に紐を張って干す。 PM5:30、夕食の支度に掛かる。 PM6:30、夕食。スパゲティ・ボロネーズに、肉団子を加えたものは、まずまずの美味しさであった。 PM8:00、片づけが終わった。「やれやれ、これで自分のテントに入ってゆっくり出来る」と思ったその時、一陣の風がさっと吹いてきた。次の瞬間、風は瞬く間に暴風となって、砂を巻き上げた。私は、洗濯物をまだ干したままである事を思い出し、慌ててそれを干してある所へ走った。 ところが、洗濯物が、紐ごと消えている。そこには、私が洗濯物を干したときには無かった、キャンピングカーが止まっている。運転手に、「此処に私の洗濯物が干してあったはずだが知らないか?」と尋ねたが、心当たりは無さそうであった。 この突然の砂塵に吹き飛ばされてしまったのか?それも、干し紐諸とも!私と運転手は、風下の方にヘッドライトを向けて探してみたが、それらしい物は見当たらなかった。この竜巻のような風のために、とんでもないところに飛ばされているかも知れないと思い、あちこちかけずり回って探した。 すると、有りました!自分が干したところに!少し皺になって折り重なってはいたが、自分が干したままの状態で発見されたのでした。明らかになったのは、私の方向音痴である。 干した場所を忘れて、暗闇の中を探し回っていたのである。またやってしまった!一緒になって探してくれた運転手にも心配を掛けて申し訳なく思ったが、お礼を言って分かれた。 PM8:30、就寝。私が横になって暫くすると、近くでキャメロンの声がする。聞き耳を立てていると、どうやら、自分たちのテントは、暴風に飛ばされそうだと言って、私の側に来たらしい。 「自分たち若者は、夜遅くまで騒ぐので、貴方は他へ行った方が良いよ」と言った張本人が、私の横にテントを張り替えることになろうとは!気の毒で笑うわけには行かないが、笑いたくなってしまった。私はいつの間にか眠ってしまったが、この突然の砂嵐は何時まで続いたのであろうか? 9月30日(日)カッパドキア AM5:30、起床。昨夜の砂嵐の為に、テント内は砂だらけである。暗闇の中で取り込んだ洗濯物は着られるかしら? AM6:00、日の出と共に、沢山のバルーンが上がるので、それを見物しようと、早起きして待っていた。ところが、今朝は風が強くて、バルーンは上げられないと言うことであった。 AM8:00、朝食。スクランブル・ポテト、スクランブル・エッグ、バナナ、メロン。食後、片づけ物の担当。 AM10:00、外出。キャンプサイトの無料バスが、1時間おきに出ます、と聞いていたので、それを利用して町へ出るつもりでいたが、人も、バスも、その陰形もない。 仕方なくキャンプサイトの外へ出て、タクシーでも拾おうかと思いながら、腰を下ろしていると、どこかの爺さんが、車の運転席からコチラを見て、笑っている。私はその笑顔に誘われて、車に近寄り「観光スポットを見学したいのだが」と言うと、「まあ乗りなさい」と言って、ドアを開けてくれた。 年齢は私と同じ72歳、昔は観光ガイドをしていたと言って、英語が喋れる。「半日ほどの観光地巡りをお願いしたいのだが、幾らでやってもらえるか?」と聞くと、「幾らでやってもらいたいか?」と逆に聞いてくる。 つまり、今の自分は、プロではないから、請求は出来ないと言うことらしい。話が纏まらない内に車は走り出した。私は「見学が終了したら、お礼をすればいいのかな」と勝手に決め込んだ。 爺さんは「この町は4000年前から人が住んでいた」と言いながら、最初に連れていってくれたのが、大きな岩で出来たオルタヒサル教会であった。町にはこう言うのが3カ所有ると言う。 オルタヒサル教会(カッパドキア) 爺さんとオルタヒサル教会を背に(カッパドキア) AM11:00、次に訪問したのが、ギョレメの野外博物館であった。ここに来た時、親父さんは急に用事を思いだしたらしく、私を車から下ろすと、謝礼も受け取らずに帰ってしまった。博物館の入場料、30リラ。10年前に来たことをぼんやり覚えている。 ギョレメの野外博物館A(カッパドキア) ギョレメの野外博物館B(カッパドキア) 「岩に洞窟を掘って生活をし、ある時は信仰を守るために、煙を出さないように息を潜めていた」と言う話を思い出した。ここは、命がけの信仰の歴史が刻まれている所でもある。カッパドキアに来ると、どうしてもシャッターチャンスが多くなるが、歴史的に、地質学的に、特別な地域であることには間違いない。 洞窟の見学は切りがないから程々にして、博物館が運営する土産物屋に入った。「そろそろ、家族への土産物を考えないと」と思っていたところに、私の目にとまった物(ズルタナイトで出来たネックレス)があったので、それに決めた。価格は内緒。 更に別の土産物屋に寄ると、トルコの伝統音楽が流れていた。心地よい音楽だったので、CDを1枚購入。20ドル。最後に2人の孫へ、ミニポーチを購入、4ドル。これでお土産の心配は終了。 AM12:30、昼食。パン、10リラ。 PM1:00、ギョレメからローズバレーへ。 ローズバレー(カッパドキア)
キノコ型の岩(カッパドキア) PM2:00、ポメラタイム。またしても突然の雨。今はそういう季節なのかしら?ポメラに夢中になって、靴がテントの外に有ることを忘れていた為、気が付いたときは、愛用の靴がすっかり濡れていた。 ポメラの良いところは、電源が乾電池だから、乾電池さえ有れば何処でも叩くことが出来る点である。しかも、かなり長時間。これに対して、スマホは充電しなければならず、しかも、短時間で電力が無くなってしまう。 このキャンプサイトには充電用電源があるのだが、キッチンにしかない。そして、そのキッチンではインターネットのシグナルが極端に弱いから、受送信をするときは、ある程度シグナルの強い、受付付近に移動しなければならない。 つまり、充電しながらネットを楽しむことが出来ない。しかも、キッチンには不特定多数の人が出入りするので、充電している時は、そこに居なければ心配である。以上、スマホの使いにくさをグチってしまったが、キャンプ場だから贅沢は言えないか! PM4:10、テント内で昼寝。 PM7:00、起床。 PM8:00、今夜は劇場で夕食だ。20分ほどマイクロバスに乗って皆で劇場へ。バスを待っている時に、サプライズ!スコットの彼女・アビーとその友人がそこに来ているではないか。我々と一緒に今夜の観劇に行くらしい。 昨夜から、スコットがアビーに会っていることは聞いていたが、私はアビーに「貴方はどうして此処にいるのか!?」と驚いて見せた。彼女は「暫くでした!」と言って、ハグを求めてきた。 そして彼女の友人も「私も良いですか?」と言ってハグを求めてきた。私は、しっかりとハグしてあげたのだが、何処かぎこちなかったのか、周りにいた連中は笑っていた。 PM8:30、劇場に到着。中央の低い位置に、さほど広くない円形の舞台があり、観客は階段状の客席で、飲食しながら舞台を楽しむ形式である。劇場の形は異なるが、パリのリドを思い出した。舞台では音楽の演奏、舞踊、ベリーダンス等、伝統的なものが次々と披露された。 観劇の夕べ(カッパドキア) 観客をもてなそうと懸命に演じていることが分かる。一方、観客は次々に出されるトルコ料理とアルコールを楽しむ様になっている。通常の理性を破壊しかねない大きな音と、アルコールの勢いで、場内は次第に盛り上がっていく。エンディングは、観客が総出になって狭い舞台で踊っている、という光景である。 アルコールの飲めない私は、一人、コーラとトルコ茶で、ピクルズを摘んでいる。出される料理も、酒の肴にはなっても、コーラとお茶ではどうにも盛り上がりません。ひたすら眠くなるのを我慢していた。120リラ。 PM11:30、お開き。帰路へ。スコットとアビーとその友人は、途中で下車。 PM12:00、就寝。面白いことは何も無かったが、深夜まで付き合えるまで、体力が回復したことを喜びたい。 10月1日(月)カッパドキア AM6:00、起床。ポメラ。昨夜もかなりの雨が降っていた。水浸しにならないように、出来るだけ多くの物をスーツケースの上に載せた。寝袋の足下が濡れて冷たかったが、水浸しは免れた。 AM8:00、朝食。フレンチトースト、バナナ、ヨーグルト、シリアル、コーヒー。 AM9:40、若いグループのレンタル車に余裕が出たので、追加で参加させてもらう。50リラ。今日は若干遠距離の見学である。 AM11:00、まず1時間ほど走ったところで見学したのは、「デリンクユ地下都市」と命名されている所。入り口で見学料を払うのだが、今回分だけ払うと35リラ。これから2週間、トルコ国内の博物館で有効なパスポートだと315リラであった。少々値が張るが、我々は、パスポートを購入した。 デリンクユ地下都市A(カッパドキア) デリンクユ地下都市B(カッパドキア) デリンクユ地下都市・入り口(カッパドキア) 地下都市は、確かに防空壕のように、そして、迷路のように何処までも掘られている。道案内なしで入ったら、出てくることは困難であろう。そんな広がりを持った地下空間が、地下4階〜地下5階まで掘られている。そして、こんな所で、数千年も前から、つい最近まで実際に庶民の生活がなされていたと言う。 実は、此処は、10年前の日本のツアーで訪問していた。ただ付いて歩くだけの旅行だから、何処へ行ったのか、名前までは覚えていないが、そこに行ってみると、思い出すと言う具合である。今から振り返ると、日本のツアーは良くやってくれたのだなと思う。 地下都市は10年前と何も変わっていなかったが、来訪者(特に中国人)が非常に多くなってい このカッパドキアも、ブラタモリ風に解説が欲しいところだが、カッパドキア全体が一つの特殊な地層から出来ていて、長年の風雪により、ある所は谷になり、有る所は様々な形の岩として残った、と言うことではないかと思う。 AM12:00、Nar
lake火口湖。温泉で出来た池、キャニオンを見学。 Nar lake火口湖(カッパドキア) AM12:30、ウフララ渓谷。(カッパドキア) PM1:00、セリメ大聖堂@(3大カースルの1つ)を見学。アイスクリーム、3リラ。 セリメ大聖堂@(カッパドキア) セリメ大聖堂A(カッパドキア) セリメ大聖堂B(カッパドキア) PM3:00、ウチヒサール ウチヒサール・遠景(カッパドキア) ウチヒサール・近景(カッパドキア) ウチヒサール(カッパドキア) PM3:30、昼食。ギョレメの町でコッペパン・サンドをかじる。10リラ。コーラ5リラ。売店のおばさんの笑顔に、心が和む。100ドルを両替。585リラになった。 PM4:40、ギョレメの野外博物館へ行くも、時間が遅く入場できず。昨日行って、お土産を買っておいて良かった! PM5:00、キャンプサイトに戻り、生乾きの洗濯物をもう一度干す。例え1時間でも干さないより良かろうと思って。シャワータイム。 PM6:00、「夕食!」の声が掛かる。支度に掛かったと思ったらもう完成か?と訝りながらトラックバスへ行くと、なんと、テーブルには、私が今日の昼食で食べた「コッペパン・サンド」が並んでいるではないか!それも同じチキンサンドである。 私は「同じ物を昼食で食べた」とは言い出せず、黙って本日2個目のコッペパン・サンドを口に運んだのでした。しかも、西洋人はこれをお茶も飲まずに、胃袋に放り込むのだ。 私は、お湯ぐらい沸かしてあるだろうと思って、インスタントコーヒーの用意をしようとしたら、お湯が沸いてないどころか、沸かそうともしていない。皆それで平気らしい。ビールを飲んでいる連中はそれで良いかも知れないが、コッペパンを丸ごと1個、水分無しで食べることは、私には苦痛である。 昼食時にも、そのためにコーラを1本購入したのである。私は、コッペパン・サンドを飲み干してから、急いでキッチンへ行き、お湯を沸かして紅茶を入れた。我らのキャンプでは、こんなに手を抜いた夕食もありなんですか? PM7:00、ポメラタイム。 PM8:30、就寝。明日の出発は、午前7時。600kmの移動だ。 10月2日(火)カッパドキア〜パムッカレ AM5:15、起床。ポメラ。テントの収納。3泊したテントの中は、砂だらけだが、乾いた砂だから、払い落とせばOK! AM6:15、朝食。バナナ、シリアル、ヨーグルト。
早朝のキャンプサイト(カッパドキア) AM7:00、出発。今日は、パムッカレまで600kmの移動である。 AM9:00、トイレ休憩。 AM12:00、昼食。シシカバブとパン。15リラ。気に入らない焼き方のシシカバブで、がっかり。カッパドキアからパムッカレまではアナトリア高原をひた走る。 アナトリア高原A(トルコ) PM2:00、トイレ休憩。売店で単4電池と菓子を購入。4リラ。 PM5:00、パムッカレの白い石灰岩の地形が見えている。ここまで来ると10年前に見学したことを思い出す。「此処には温泉が流れていて、それが石灰岩を溶かし、現在のような真っ白な地形を形作った。そしてここには、ローマ皇帝の館もあり、時々訪れては温泉を楽しんでいた」と説明されたと思う。 白い石灰岩の地形(パムッカレ) PM5:30、スーパーに寄って夕食の買い出し。大きな鯖を3匹買っていたが、どう料理してくれるのかな? PM6:00、パムッカレのテペ・キャンプサイト(Tepe Camping)に到着。カッパドキアと同じスタイルのキャンプサイトで、Wi-Fiも利用できると言うことであったが、実際には、利用できない。一人35リラ追加すれば、屋内の宿泊施設を利用できると聞いて、テリーと相部屋で利用することにした。 シャワーは熱いお湯が出て、良かったが、便器に便座が付いていない。つまり、壊れていて取り外されている状態である。あれもこれも壊れていて、満足なものが少ないが、ブッシュ・キャンプを思えば、まだ増しか? PM7:00、ポメラタイム。 PM8:00、夕食。今夜は、鯖の料理は出なかった。肉料理を小麦粉で作った紙のような物に巻いて食べる。もう何度か食べているが、余り美味しくはない。和食と洋食の差は大きく、私が洋食に合わせるしかないが、限度がある。正直に言うと、美味しいと思うことは殆ど無いのが実状である。 PM8:30、お湯を沸かしていないから、食後のお茶も飲めないので、キャンプサイトの親父の所へ行って、コーヒーを所望し、若干懇談。親父は56歳。7年前にリタイアして、キャンプサイトの経営を、第2の職業にしている。 トルコの発音を「ターキー」と、日本語式に発音したら、全く理解できなかったようで、「ター」の発音の時に、舌を丸めなければいけなかったようだ。日本人には、舌を丸めようが、丸めまいが同じように聞こえるが、彼らにとっては全く別の音になるらしい。 PM9:30、キャンプ場のベッドで就寝。 10月3日(水)パムッカレ(Pamukkale) AM6:45、起床。 AM7:15、朝食。シリアル、トースト、青リンゴ、 AM8:00、路線バスに乗って出発。3リラ。 AM8:30、本日の観光ルート: 1、
温泉石灰華段丘。白い石灰石で出来たテラス。お湯の流れるところを、素足になって(靴を履いていると、かえって滑るらしい)ゆっくりと登っていく。10年前に来た時より温泉の量が増えていた。此処でも観光客(特に中国人)が増加している。中国の伝統的民族衣装を着て、記念撮影をしている若い女性も居た。 温泉石灰華段丘A(パムッカレ) 温泉石灰華段丘B(パムッカレ) 温泉石灰華段丘C(パムッカレ) 温泉石灰華段丘D(パムッカレ) 私は、段差のある石段で、70歳前後のロシア人婦人に、「一人では上れないから手を貸してください」と頼まれた。自分だけでもやっと上って来ているのに、太った婆さんに手を取られたら、自分が転けてしまわないか心配が脳裏をよぎったが、躊躇する間もなく手を捕まれてしまった。 「かくなる上は、婆さんを上の段まで引き上げるしかあるまい」と覚悟して手を引いた。幸いに二人とも無事に上のテラスへ上がることが出来た。「スパシーバ」とお礼を言われ、私でも役に立つことがあるのかと、少し嬉しくなった。 2、廃墟のフォートレス。ローマ帝国時代に造られたものであるが、風化と地震により、今は、壁の一部が昔の名残を止めているだけである。 廃墟のフォートレス(パムッカレ) 3、博物館。ローマ時代の皇帝の彫刻(完全な形で残っている物は無いが)や沢山のコインが展示されていた。塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読むと、どの巻にも、必ず当時のコインの写真が出てくるが、当時は、皇帝が変わる度に、その権威を高めるために、新しいコインが鋳造されたのであろうか。 ローマ帝国時代の彫刻(パムッカレ) ローマ帝国時代のコイン(パムッカレ) 4、ローマ帝国時代の遺跡が沈んでいる温泉プール。このプールを見て、オーストラリアのスチュアート・ハイウェイを旅行中に立ち寄った、のどかな温水プール(エルセイ国立公園内にあるマタランカ温水プール)を思い出した。それに比べて此処は人が多くて、とても泳げる状態ではない。そして、入浴料が50リラと、安くもないのでプールに入るのは止めた。 温泉プール(パムッカレ) 5、半円形劇場(アンフィシアター)。ローマ帝国時代に繁栄した町には必ずある半円形の野外劇場である。一部壊れ掛かってはいるが、十分に元の姿を止めている。 半円形劇場(パムッカレ) こうして見てくると、このパムッカレの町は、ローマ帝国時代に、大きく繁栄していた町であることを、教えてくれる。一帯には、大きな、しかも手を加えられた石が、無造作に転がっている。これらが修復されて元の町が蘇ったら、目を見張るような姿を目の当たりにする事になるであろう。 前回、日本のツアーで訪問したときは、時間の都合か、修復の都合か分からないが、上記の1だけの観光で終わっていた。今回は、ゆっくり観光できて、町の全体像がつかめた事は、有意義であった。バルーンや、ハングライダーが気持ちよさそうに浮かんでいる光景も良いものである。 AM11:30、主な物を見学し終えた私は、一人、町へ下りることにした。出口まで来ると、沢山の大型観光バスが停車しており、そこから続々と観光客が降りてきていた。 大勢の観光客(パムッカレ) 沢山の観光バス(パムッカレ) 私は、観光客が増えていることを感じていたが、それでもまだ空いている時間に見学を終えたようだ。同じ方向へ下りて行く中国人カップルが居たので同乗し、割り勘に。10リラ。 AM12:00、町を歩いていると、日本食堂を見つけた。日本人が経営していて、「開業して15年になります。最近は、日本人は増えておらず、中国人が多くなりました」と言う。 メニューの値段を見ると、ほかのレストランより高めの値段だが、和食が食べたくて値段は妥協した。オムレツ、30リラ。暫く待たされたあげくに「今、ご飯を炊いておりますので、もう暫くお待ち下さい」と言われた。「この時間に、ご飯がない日本食堂とは、どんな食堂なのだろう」と疑問を感じたが、質問するわけにもいかない。 幸い、Wi-Fiの出来る店であったので、それで時間を潰すことは出来た。大分待たされて炊きあがった米のご飯は、余り美味しく炊けているとは言えなかった。自分で作った方が美味しいかも。因みに、私の食事中に入ってきた3組の客は、全て中国人であった。 PM1:00、タクシーで山の上のキャンプサイトに帰ろうと思い、タクシーを呼んでもらった。「降りるときに40リラ払って下さい」と言われて乗った。少し走り出して、交差点で停車すると、隣のタクシーに、ジョノとニンカが乗るところであった。私は、そちらに相乗りしてキャンプサイトに戻ってきた。 料金は25リラだったが、ニンカが全額出してくれた。結局、40リラの予定が、無料になってしまった。ラッキー! しかし、メーターで来ると25リラの所を、40リラ払えとは?観光地では一見の客ばかりだから、悪い業者に掛かると、たかられ放題である。 PM1:30、ポメラタイム。 PM3:00、おやつタイム。朝食の取り置きを少々食べる。その後は、音楽を聴いて過ごす。 PM6:00、午後から出かけたテリーが真っ赤な顔をして戻ってきた。我々がタクシーで上って来た道を、2時間掛けて歩いて来たと言う。何と言う健脚! PM6:30、夕食。「炊き込みご飯」とでも言おうか。昨日買った鯖も、この中に入っていた。それは良いとして、米は芯が残ったままの生煮え。若いクリスタに「芯が残っていることは、気にならないか?」と聞くと「全く気になりません」と言う。これだけ食の好みに差があると、黙って諦めるしかない。 それはそうと、アダム夫妻が食卓に居ないので「何処に行ったの?」と聞くと「アダムは魚が食べられないので、町まで出かけて行った」と言う。アダムは、野菜が駄目、そして魚も食べられないと来ている。妻のニキータは、それを懸命にフォローしている。毎日のことだから大変だと思う。 PM7:30、2泊分の追加の部屋代を支払う。70リラ。後4泊で3ヶ月に渡ったこのツアーも終わりを迎える。色々あったが、何とか乗り切れそうだ。 PM8:10、シャワータイム。暖かいお湯が出ず、シャワーを諦める。少し前に、テリーが使ったときは、熱いお湯が出ていたのに。オーナーに言っても回復しなかった。 |